
小峰さんの依頼で関連する写真を添付致します。
①当時の太宰府を防衛する拠点となった大野城、水城、基肄城が太宰府を囲むように配置されています。大野城と水城は図で分かるように博多湾から上陸して来る敵に対応する為に築かれたものです。そして基肄城(ご存じの基山)は南から攻めてくる敵に対抗する為ではないか?と小峰さんと話していました。気になって調べると案の定、以下の記述がありました。
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基肄城は、白村江の戦いに大敗した後の665年(天智4年)、中大兄皇子(後の天智天皇)により、大宰府防衛のため大野城とともに築城された山城です。城のある基山の山頂からその東峰にかけて、約3.9キロメートルの土塁・石塁(外部から敵が侵入するのを防ぐための砦)が山を囲むように築かれており、その広さは国内最大級の規模を誇ります。
博多湾や筑後平野、遠くは雲仙まで見通すことができる視界の良さを生かし、有明海からくる敵を警戒していたと言われています。お天気のいい日に限られますが、現在でも山頂の西側にある通天洞付近からは、雲仙の姿を見つけることができます。
②、③は観世音寺の写真ですが、このシステムは1枚添付可能で亦、添付させて頂きます。